その日、彼はたまたま部活の朝練に出た。
彼の所属するクラブは、“気軽で楽しく”をモットーとし、朝練も自由参加で、彼は3年になるまで、滅多に参加した事はなかった。
その日は、ほんの気紛れで、いつもより2時間も早く家を出た。
早朝とは言え、7月の太陽はジリジリとアスファルトを焼き、自転車を漕ぎながら、彼は早くも自分の気紛れを後悔し始めていた。
途中、ふと見ると、同じ高校の、やはり朝練に向かうのであろう少年が、信号待ちをしていた。
大きなカバンを自転車カゴからはみ出させ、丸坊主のその少年は、明らかに野球部員に違いなかったが、見知った顔ではなく、少年は彼の方を見る事もなく、青信号で先に走り去った。
久しぶりの朝練は、ダラダラと喋っている方が長く、彼は他の仲間と共に、早々に練習を切り上げた。
校舎に向かう途中のグランドに、野球部がいた。
「あいつら毎日朝練してんの?」
彼は友人に聞いてみた。
「お前知らないの?もうすぐ夏大会の予選じゃん。野球部、1回戦で去年の準優勝校と当たるらしいぜ。あんなに練習してるけどさ、可哀想に、終わりだな。」
友人はそう言った。
彼は放課後、もう一度グランドに寄ってみた。
野球部は炎天下、必死に練習していた。
今朝会ったあの少年がいた。
ユニフォームをドロドロにして、大きな声で何かを叫びながら、少年はただひたすら、ボールを追っていた。
彼はそれから毎日、朝練に行くようになった。
野球部のあの少年とは、毎日同じ信号で出会う。
だが2人は、一度も口を利く事はなく、野球部は地区予選大会第1戦の日を迎えた。
翌日の新聞を開いて、彼は驚いた。
野球部は、去年準優勝の強豪校を破っていた。
1対1の延長10回、満塁1死後、サヨナラ打を放ったのは、あの少年だった。
彼は初めて、少年の名が、Wだと知る。
同じ高校の同級生の活躍に、彼は興奮した。
その日も彼は、朝早く家を出た。
朝練の為ではなく、Wに会う為だった。
Wに会って、言いたい言葉があった。
野球部は2回戦、3回戦とトントン拍子に勝ち進み、4回戦ではシード校相手に、コールド勝ちをおさめた。
Wは毎試合ヒットを打ち、勝ちに貢献していた。
毎朝彼は、今日こそ言おう、今日こそ言おう、とWを待った。
Wは普段と変わらぬ様子で、毎日朝練に向かう。
真っ黒に焼けた、眠たそうなその顔を見ると、彼は、気恥ずかしさも手伝って、声を掛ける事ができなかった。
いよいよ、野球部は準々決勝の日を迎えた。
彼はその日初めて、試合会場へ足を運んだ。
総勢200人以上の、生徒や卒業生がスタンドを埋め尽くしていた。
野球部の快進撃は、学校を1つにしていた。
その日の対戦相手は、優勝候補の高校だ。
試合は序盤に点を取られ、後半追い上げるも、残念ながら敗退した。
彼は泣いた。
感動して泣くのは、生まれて初めてだった。
回りの生徒達も皆、泣いていた。
その誰もが、誇らしげな顔をしているように、彼には思えた。
バスに乗り込む選手達を、大勢の生徒達が待っていた。
大拍手と、ねぎらいの声援の中、選手達が現れた。
彼は、迷うことなく、初めてWに声を掛けた。
驚いたように振り向くWに、彼は、ずっと言いたくて言えなかった言葉を、やっと言った。
「ナイスバッティング」
Wは照れたように笑って、「有難う」と帽子をとった。
たくさんの、見知らぬ人達の心に感動を残し、野球部3年生の夏が終わった。
これは息子達の地区予選、準々決勝敗退の後、実際に小耳にはさんだ実話に基づき、想像を膨らませて書いたお話です。
無名の公立校がベスト8に残った事は、みんなの士気を高め、翌日から、休む事無く、新チームで練習を開始した息子達の大きな励みとなってるようです。
今度こそグランドに立ちたいと、息子だけでなく、部員全員が思っているでしょう。
ちょっとだけ、甲子園が見えた今年の夏。
猛烈に暑かったけど、私にとっても楽しい思い出になりました。
手前味噌な長~い文章を読んで下さった方に感謝します。
お母ちゃんが長い文章書いてる間にイタズライタズラ
この後クーラーのリモコンが落とされました(T_T)